鹿児島や宮崎のスーパーでは、竹の皮と「灰汁(あく)」が1年中、販売されているのを見かけます。
最初は、食料品売場に立派な竹の皮と並んで「灰汁」と書かれて5リットル位の大きめのボトルに入った液体が並んでおいているのを不思議に思った記憶があります。
あくまき
あくまき(灰汁巻き)とは、鹿児島県、宮崎県、熊本県人吉・球磨地方など南九州で主に端午の節句に作られる季節の和菓子である。もち米を灰汁(あく)で炊くことで独特の風味と食感を持つ。
あくまき - Wikipedia
あくまきはどんな由来の食べ物?
あくまきは、おもに春、主に端午の節句で食べられる鹿児島県独特の餅菓子。
地元では「ちまき」とも呼ぶことから、中国大陸由来の「粽子(ちまき)」をルーツを持つものと考えられます。
鹿児島の「あくまき」のルーツだと考えられる「ちまき(粽・粽子)は、一般的にもち米を材料とした餅菓子で茅や笹の葉や竹の皮で、餅菓子を包んだもの。
中華料理で言うところのちまきは、もち米を肉や野菜と醤油味で味付けして蒸したものを竹の皮で包んだものとして知られています。
2018年、ウェザーニュースが行った調査によれば
北日本や東日本、北海道〜関東甲信ではちまきの中身は「おこわ」
東海~九州では中身が甘いお団子
という調査結果があります。
「おこわ」派は、いわゆる「中華ちまき」で、もち米と肉や野菜の味付けされたものを蒸して竹の皮で包んでいるもの。
西日本のそれは「細長い笹の葉でくるんだお団子」。
唯一、鹿児島だけが「あくまき(灰汁巻き)」として、独自の食文化となっているということ。
都があった近畿中心に定着
端午の節句にちまきを食べるのは、元々中国で供物を捧げていた行事が由来しています。
二千年以上も昔、中国にあった楚の国の屈原という詩人が、国を憂いながら汨羅の河に身を投げて死にました。その日が5月5日だったので、楚の国の人々は屈原をしのび、毎年この日に竹筒に米を入れて河に投げ入れ供養しました。これがちまき粽のはじまりです。
これが、奈良時代に端午の節句の風習の1つとして日本に伝来。当時、都のあった近畿地方を中心に、(白く甘い団子を笹の葉で包んだ)ちまきが広まったようです。
一説によると、その後も伝統を重んじる近畿地方では、ちまきを食べる習わしが引き継がれているようです。一方、端午の節句にちまきを食す風習があまり定着しなかった東日本や北日本では、のちに端午の節句に柏餅を食べるのが主流となったようです。
出典:端午の節句の「ちまき」包まれた中身が東西で違う!|ウェザーニュース
端午の節句の「ちまき」 包まれた中身が東西で違う!端午の節句のお祝いで食べると言えば、関東では柏餅が多いですが、関西ではちまきという人が多いと思います。 その「ちまき」、関東と関西で違っている事が判明しました!
あくまきは関ケ原の戦いや西南戦争で兵糧として重宝されていた!
関ヶ原の戦いの際、薩摩の島津義弘が日持ちのする食糧として持参したのがはじまりだという説があります。
一説では、薩摩藩が1600年の関ヶ原の戦いの際、または1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日持ちする兵糧として作ったのが始まりといわれる。他にも諸説あり、農家の田植え時の保存食、日本に伝来した粽の当初の形がこの地域のみ残った説、平家の落人により伝えられた説、たまたま焚き火に落としたおにぎりが腐らなかったのを見つけた説などもある。
あくまき - Wikipedia
薩摩藩の軍勢だけが、独特の工夫を凝らした「あくまき」で腹を満たし、士気が大いに上がったと言い伝えられ、薩摩にとってはなくてはならない戦陣食として活用されたといいます。
日本最後の国内戦争である、西南戦争では西郷隆盛率いる薩摩藩士が、あくまきを食したことから、鹿児島のみならず宮崎県・熊本県人吉・球磨地方など南九州でも、主に端午の節句に作られる郷土料理として伝わったものとされています。
あくまきは、
灰汁で長時間煮ることで減菌
木の成分で抗菌
アルカリ環境による雑菌繁殖の抑制
竹の皮の抗菌
と、複合的で合理的に戦陣食、兵糧としての特性を持ち、水分は多い割に日持ちよく、当時兵糧として多かった「干し飯」と比較しても、食べやすさも保存性も優れていたようです。
あくまきの売ってる場所どこ?
あくまきは、鹿児島県では年中スーパーなどで売っていますし、あくまきを作る素材(灰汁や竹の皮)が売っています。
インターネット通販でも、あくまきのお取り寄せもできますので、一度お試しあれ。
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