近テレビを見ているとクイズ番組が多いと思いませんか?
「えっ!これが小学5年生レベル?」「うそ!漢字の書き順は縦が先よ」などとテレビを見ながら家族で競い合ったり…
今月の休みは?
カレンダーを見ては、祝日の日の移動や名称に戸惑いを隠せません。
子供のころに頭を抱えながら必死になって覚えたことは、何だったのでしょうか。
『昔の常識は今の非常識!』なのか、3つの歴史に基づいて昔と今の変更点を探ってみましょう。
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いい国作ろう鎌倉幕府はもう古い?
私の学生時代、1192年「良い国作ろう鎌倉幕府」と教えられました。そう教わった方は多いのではないでしょうか?
ところが最近の教科書には、1185年「良い箱作ろう鎌倉幕府」と改定しているそうです。
なぜ今まで正しいとされていたことが、近年の学習指導要領では、変更になっているのでしょう。
昔は征夷大将軍を頂点として、幕府を司るものであると考えられていたため、その将軍が誕生した年を『鎌倉幕府の成立した年』とされていました。
ですが近年の研究で異議が唱えられ、『幕府の当地基盤を整えた年』を鎌倉幕府の成立した年に変えました。
つまり、幕府成立の定義が変わったため、今と昔では幕府成立の時期が変わったのです。
そもそも1192年は、朝廷が源頼朝を征夷大将軍に任命して、鎌倉幕府を承認した年なのです。
ところが最近の研究で、この年以外にも成立したと考えられる年がいくつも出てきたのです。
- 朝廷が頼朝の東国支配を認めた、1183年説
- 幕府の機構が整備された、1184年説
- 守護・地頭を設置した、1185年説
- 奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を支配下においた1189年説
このほかにも、1180年説、1190年説もあり、まだまだ学者の間では、異論も起こっているようですが、最終的に多くの学者が1185年説を支持したことにより、教科書にも1185年が鎌倉幕府の成立した年となりました。
きっと学者討論会では、いろいろともめたことでしょう。
私は歴史が苦手で、年号を覚えるのにも、一苦労しました。
その中でも簡単に覚えられた鎌倉幕府の年号、今度は「良い箱作ろう」で覚えなおしです。
老いた頭をフル回転させながら(笑)
ではこのように歴史的発見や、学界や研究者の間で議論が進んだことは、ないのでしょうか?
教科書から士農工商→記載がなくなる
江戸時代、「士農工商」という身分格差があり、武家、農民、職人、商人の順で序列があった…と厳しい上下関係について教わりました。
一番上は武士で、農民、職人、商人に年貢を払わせるためでした。
でもこの話、事実とはチョット違うようです。
じつは江戸時代、士農工商なんていう身分制度は存在しなかったのです。
士農工商という概念は古代中国のもので、四つの身分というより「あらゆる人々」を意味し、近年の研究成果により、単純に「士農工商」という言葉で身分を分類していなかったことがわかりました。
江戸時代の身分には、武士、百姓・町人等が存在し、その他の身分として天皇や公家、神主や僧侶などがいたというのが実態です。
しかも驚くべきことに農民だった人が、お金持ちになって武士の権利を買うこともできたのだそうです。
しかしお金を払ってでも欲しい武士の権利とは?気になりますね。
苗字を名乗る、帯刀することができる、給料がもらえる。
そんな苗字を名乗ったり、給料をもらったり今では当たり前のことができなかった時代なんですね。刀は持ったらいけないですけどね(笑)
この時代に私がいたならば、百姓でしょうか? それとも…
やっぱりわたしも武士の権利が欲しい?
武士の権利を買うには、10貫文?(1貫文 45000円) いや100貫文はいるのかな?
現在のお金で450万円だとしたら… 私にはとても無理な話です。1万円貯めるのも、ひと苦労…
そうそう、1万円といえば昔、聖徳太子がお札に印刷されていましたね。その聖徳太子にも変更点があるそうですよ。
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「聖徳太子」と「厩戸皇子」は同一人物!
567年、用明天皇の第二皇子として聖徳太子出生しました。本名『厩戸』。「聖徳太子」という名は後世になって付けられた呼称です。
なので「聖徳太子」と「厩戸皇子」は同一人物なのです。
その『厩戸皇子』は、生まれてすぐにものが言えたとされているそうです。
え~そんなばかな! 赤ちゃんが言葉を話せるなんて。
「あ~」や「う~」なら3か月、「パパやママ」なら1年くらいですよね。
そんなに聖徳太子は、すごかったの?
聖徳太子は「憲法十七条」「冠位十二階」「遣隋使派遣」など多くの偉業をおこなっています。
しかし近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられているそうです。
では聖徳太子は、本当にいなかったのでしょうか?
「“聖徳”太子」ですから、上記の偉業をすべて行っているはずです。
しかし『厩戸王(皇子)』について、改めて検証していくと
「憲法十七条」も「冠位十二階」も『厩戸王』が主体として確実に関与したという証拠がないそうです。
最近の研究から、聖徳太子の存在した推古王朝は、天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、ひとりで成し遂げられた人物ではなかった、
つまり「聖徳太子は存在しなかった」ということで、教科書には、「聖徳太子」ではなく『厩戸王(皇子)』と記述しているそうです。
今回いろいろな今昔を調べてみて、歴史に限らず、ほかにも変更になった事がらがあるのではないかと、わたしも興味がわいてきました。
また何か教えたいことがあったら、お話ししますね。
みなさんにも興味を持っていただけたら幸いです。
この記事が少しでもお役に立てましたらシェアしていただけますと嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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